なぜ評論家はいい加減に歴史のアナロジーを使うのか?

大学の考古学と、歴史と人類学の授業で学んだことをちょっと書いてみる。

よく評論家やジャーナリストが現在の時事ニュースを過去の歴史的パターンとの類似性を指摘することで評論なり批判したりする。そこには彼らの歴史観や歴史に対する知識が投影されている。しかし安易に過去の歴史の山椒をして現在に結びつけて良いものだろうか?例えばヨーロッパを荒廃させた黒死病から人類は生き延びたからといってSARSウイルスや鳥インフルエンザからも生き残れるという「歴史のアナロジー」は妥当でしょうか?それなら歴史より科学を参照した方が良いということになるでしょう。なぜ科学的または定量的に議論できる素材があるのにわざわざ歴史を参照していい加減な議論をする必要があるのでしょうか?

結論から言うと、多くの場合、現代を語るのに歴史を参照する必要はないです。他により現実を定量的に捉える方法はいくらでもあります。

ではなぜ評論家たちは「歴史を参照したがり」なのでしょうか。

理由は簡単です。彼らの中では歴史は単なる物語なのです。

評論家の多くは歴史の専門家や研究者でないので、新書や教科書で描かれた一面的な歴史のストーリーを自分の脳内で都合よく編集して、そこに複雑な現在とのアナロジー、パターン認識を行います。歴史を起こった出来事のデータベースとしてではなく物語・ストーリーとして記憶してるために、彼らの脳内はイマジネーションが働き、勝手に脳の神経細胞が幻想の類似性を見出してしまうのです。

歴史の専門家や研究者はいつもデータベースの海をさまよっているために、そこから歴史をストーリーとして紡ぎ出してしまうことへの危険性をより認識しています。歴史というのは常に多面的でそこから一本の語り口を紡ぎ出してしまうと多くの情報量を失ってしまうのです。しかもほとんどの非専門家の歴史観は親や祖父母、環境によって伝えられた経験に限られていることに注意した方が良いでしょう。それらの限界をのり超えるには、起こった(とされる)ファクト以外にも、その時代プロパガンダを読み、研究し、解くことを学ばなければならない。一言で言えば、大学では、トピックについて3つの反対意見ではないにしても、少なくとも2つを比較しなければ本当の歴史というものは見えてこないものなのです。

歴史を一本の綺麗なストーリーではなく、複雑なデータベースであると考える人なら、安易な歴史の現在へのアナロジーなど慎むべきだとわかってしまうのです